2007年10月13日 (土)

発病前の頃1

中学生になる頃。

私は公立の中学だったため、地域の協定により

みんなと違う中学校に行くことになった。家の近くに中学校があ

るにもかかわらず自転車で片道30分かかる遠い学校へ行くこ

とになった。知り合いは一人しかいなかった。「転校」のよう

なものだった。入学式から私は「私の居場所はここじゃない」と

思っていた。その思いは三年間変わらなかった。早く卒業した

いと思っていた。卒業したからといって小学生に戻れるわけで

はないのだけれど。部活は卓球部に入った。運動は苦手だっ

たけれど卓球なら私にもできるのかもしれないと思って入った。

友達もたくさんできた。しかし私はずっと寂しい気持ちのままだ

った。小学校の友達と会うこともなくなっていった。部活が忙し

かったからだ。卓球といえども運動部。休日も練習がある。勉

強の方では宿題がたくさん出るし、私はそれを完璧にやらなけ

れば済まない性格だった。完璧主義なのかもしれない。空虚感

のようなものが私をずっと覆っていた。「小学校に戻りたい」それ

しか考えていなかった。だから中学校の生活は相当なストレスだ

った。二学期に入る頃、「疲れやすい」自分に気がついていた。

疲れが抜けない、気分が沈んで、「いつもの私じゃない」と思った

。休み時間は眠ってばかりだった。眠くて仕方がなかった。疲れ

方がすごい。体力も元々なかったけれど、きっと、それだけじゃ

なかった。足や腕の痛みも現れていた。成長痛だと解釈してい

たが、あまりにひどいので整形外科でレントゲンを撮った。しか

し異常はなかった。発病の前触れだったのだ。それでもまあな

んとか無理して頑張っていた。「根性」とか自分で言ってみたり

して。勉強をすごく頑張った。クラスで2、3位くらいだったかな。

どうしても抜けない頭のいい人がいて、1位は取れなかったが

。塾も行って部活もして、大忙しだった。その疲れは「体力

的なもの」だと思っていた。「精神的な疲れ」は私自身分かっ

ていなかった。小学校の友達と別れたことが大きなストレス

になっていたし、喪失感を抱いていたのは事実なのに、見え

ないフリをしていた。自分の心に蓋をしていた。時々来る友

達からの手紙が唯一私の心を支えていた。

この頃は謎の疲れと睡眠の質が悪いことが私にとって問題

だった。部活が休みの日は寝潰し、勉強するか寝るか、部

活か、の毎日。頑張っていた。なんとなく気分が晴れないこ

とも、学校に対する拒否感とでも言うのであろうか、そんなも

のが原因だろうと思っていた。

中学一年生だった。

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発病前の頃2

中学二年生になった。

部活では初めて大会で三回戦まで進むことができた。上手な友

達と一緒に練習して自分も上達できた。友達と過ごす部活の時

間楽しくて仕方がなかった。しかし、「疲れ」は私をずっと覆って

いた。塾と部活の日々。教室では休み時間を寝潰すのが常と

なっていた。教室では休み時間に友達と話したりすることはな

かった。友達との関わりが面倒に思われて仕方がなかった。

だから教室では「真面目」で勉強一途なのだと思われていた

ことだろう。部活では友達との関わりが楽しく思えた。私の

生きている場所は部活だった。

秋。高校受験を考え始める頃。三者面談が行われた。私は

成績が良かったために、私立の特待生を狙ってみてはどうか

と言われた。そして、「お前ならもっとやれる」とも言われた。

成績が良いから、期待されていたのだろう。次の期末テストで

●点取れ、と言われ、私は馬鹿正直に受け止め、勉強に励ん

だ。そしてテストでは、先生に言われた点数を越えることがで

きた。200人くらいの中で5位だった。1位ではなかったけれど

嬉しかった。しかしそれと同時に、ぽっかり穴の開いたような

気持ちになった。面談では「何の為に勉強してるの?」と聞か

れ、私は答えることができなかった。職場体験で薬局に行っ

たことを、先生は薬剤師になりたいものだと思ったらしい。

その質問は、私を困惑させた。「私は何のために勉強してい

るんだろう。」思い返すと、中学校へ入るときに友達と別れた

寂しさを紛らわすために勉強していたのだろう。それに気が

つくのはもっと後になってからだった。先生の何気ない質問

に、私は放心状態に近くなってしまったのだ。面談の後しば

らくは、心が空虚になってしまったような感じだった。

目標達成のテスト後、私は脱力感でいっぱいだった。●点

取る、という目標を死ぬか生きるかのように捉えて勉強して

いた。だから、余計に「もう終わったんだ」という気持ちでい

っぱいだった。この頃からだ。遊んでも「楽しくない」という

感覚になっていった。小学校の頃の友達と遊んでも「楽しく

ない」のだ。友達と買い物に行くことはすごく楽しかったはず

なのに、私は楽しくなかった。

そして私にとって心の衝撃が起こる。

ずっと友達として手紙をやりとりしていた人から告白されたの

だ。それは私にとって大きな衝撃だった。嬉しいという感情で

はなかった。ショックだったのだ。何故だかはわからない。

普通ならば嬉しいという感情を抱くのかもしれないが、私は

ショックだった。しばらく呆然としてしまった。何が起こったの

かがわからないくらいだった。ずっと私の心を支えてくれて

いた人が私を好きになった。普通に考えれば、喜びの感情

が起こるのに、何故だか私はショックでいっぱいだった。

勉強も手につかなくなるくらいだった。その頃から同時に

症状が出始めたのだ。気持ちが妙に不安定で、いつもなら

自分でコントロールできるはずの感情が、コントロールでき

ない。気分がすごく沈む。何故だかわからない。空虚でむな

しい感じが私を襲った。どうしようもなかった。三年生の修学

旅行の計画なんかを立て始める時期でもあったが、私は

期待が持てなかった。何故か、悲しくて不安だった。

勉強も、どうでもよくなっていた。

中学二年生の冬だった。

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発病―桜の頃―

中学二年生の春休みだった。

これまですごく居心地の良くて楽しかった部活が、楽しくなく

なってしまったのだ。友達関係のトラブルがあったことも

あり、私は友達に悪口を言われている気がした。

唯一の楽しみの場所を私は失ってしまった。そしてものすご

い不安感が私を襲った。どうしたらいいのかわからなかった。

私は、「きっと高校受験への不安なんだろう」と思っていた。

しかし今思えば、それは単なる受験の不安なんかではなく、

発病のサインだったのだ。自分ではどうしようもないくらい

の不安感だった。春休みがあけ、新学期が始まった。

物凄く不安で仕方がない。私がどこかに行ってしまいそう

で怖くて仕方がない。不安で不安で、教室で私は泣いてい

た。先生もみんなも、「どうしたの」とか「悩みがあったら聞く

よ」などと心配してくれた。しかし、何故不安なのかがわから

ない。言葉にできない。だからどうでもいいようなことをこじ

つけて、それを「悩み」だと言って自分にも周りの人にも

言い聞かせていた。授業も、全然わからなくなった。

教科書が、理解できないのだ。今までなら読めばわかった

ものが、全く理解できない。当てられても答えられない。

ずっと「優秀」な自分に誇りを持っていたから、ショックだっ

た。勉強を「することができない」という状態に、困惑した。

そして教室がざわざわしてうるさくて、先生の話が理解

できなかった。私の悪口をあちこちでコソコソと言ってい

るのだと思っていた。成績がいいことで嫌味を言われて

いる、というようなものだった。

忘れもしない修学旅行。前日、私は教室で泣いていた。

友達も心配してくれた。そんな不安定な状態で私は

京都・奈良へ行った。新緑の季節なのに、私の前に映る

光景は、怖くて暗い世界。当時の写真を見ると、無理や

り微笑んでいる自分が写っていて、悲しくなってしまう。

自分がこんな状態になっていることを先生にも相談した

けれど、思春期の不安定さ、ということにされた。

仕方がない。先生だって医者じゃないし、それは責められ

ないことだ。先生は先生なりに、私の相談に乗ってくれた

り、頑張っていたのだと思う。先生とのノートのやりとり

は、今でも残っている。私は私なりに、このおかしな状態

を伝えようと頑張っていた。しかし、私がおかしくなった

「原因」としたものは、原因でなく、ただのこじつけだった。

統合失調症の発病だった。

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発病―症状―

症状は私の自信をも奪っていった。

委員会の委員長をしていた私は、体育館の壇上で発表すること

になった。こういうとき私は、緊張はするけれど、自分でその

緊張をコントロールして、きちんと発表できるのだった。

しかし、それが、全くできなかった。コントロールが効かない。

なんとか原稿を読みきったものの、声が震えてしまった。

「いつもの私じゃない」と思い、ショックだった。

そして私はいつも先生に監視されている状態だった。

どこにいても、先生は私を監視している。

HRでの話しは全て私への当てつけだと思っていた。

教室ではずっと監視されているから、一刻も早く逃げ

出したい、と思った。今すぐに教室を飛び出したか

ったけれど、ギリギリのところで耐えた。とにかく不安

で仕方がなかった。当時は自転車で学校に通ってい

たのだが、すれ違う車の運転手が私のことを見てい

る。どこに行っても私は誰かに監視されている状態

だった。

当時は「酒鬼薔薇事件」が世間をにぎわせていた。

中学生が殺人(しかも惨殺な形で)をするという衝撃

的な事件だった。そのとき私は、「私も誰かを殺すかもしれ

ない」と思った。この少年と同じことを、私はやってしまうか

もしれない、と思った。私は先生に監視されている。そして

先生は私を攻撃しようとしている。だから先生を殺さなけ

れば、私が殺られる、という危機感を持っていた。

実際に行動には移さなかった。これはすごく良かったと

思っている。私の頭の中では「殺す」「殺せ」という考え

がぐるぐる回っていて、止められなかった。頭が勝手に

考えていくのだ。思考が止まらない。声が聞こえる、という

よりは、頭の中に響いている、という表現がぴったりと

くる。一瞬でも考えることからは解放されない。ずっと考え

させられているのだ。自分がおかしくなっていくのが怖か

った。監視されているから、ずっと緊張した状態だった。

体が硬直していた。友達もおかしく思ったのだろう、

「熱を測っているみたい」と言われた。腕をぎゅっと体につけ

て固まっていたからだ。そして人が怖くなった。

「いつもニコニコしているね」というのが私のチャームポイン

トだったが、笑えなくなっていった。怖くて仕方がなかった。

こういった症状は強く出ており、当時の私にはどうすること

もできなかった。クラスで悪口を言われている(と思っていた

)ことを親に話すこともできなかった。そんな自分を認めたく

なかったのだ。私は友達とは上手くやっていける、と信じて

いたからそれを崩すことは嫌だった。当時の担任と友達

の何人かには私のおかしさを「友達関係の悩み」として

相談した。自分のおかしさを、認めたくなかった。これは

私の悩みからくるものなんだ、と信じていた。精神世界に

は無知な中学生だったから、病気だなんて知らなかった。

自分の力でなんとかできるものだと思っていた。

気分が沈んだときに、自分を立て直すような方法で解決

できるものだと思っていた。何度も気持ちを立て直そうと

したけれど、全然ダメだった。唯一、当時の私ができたこと

は「書き留めること」だった。とにかく、書いておこう、と思っ

た。書いておけば、後で何かしらわかるかもしれないと思っ

たのだ。だから日記のように私はぐちゃぐちゃな考えを書

いていた。書いたものは今も残っている。中学生の私が

必死に書きとめた「おかしさ」は私が子供だったからではな

いのだとわかった。確かに考え方や言葉遣いは中学生だ

ったけれど、症状は確実に出ていた。

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発病―夏休み―

混乱のまま、私は夏休みを迎えた。

「どうしよう」という不安感はずっと続いていた。

自分のおかしさは病気なのだということは知らずに

未だ自分の力でどうにかしようと頑張っていた。

可愛い服を着て、当時流行っていた厚底サンダルを履いて

買い物に行った。少しでも気分が晴れたらいいな、と思いな

がら。お金の使い方もおかしくなっていた。不安を解消する

為に、欲しくもないものを次々に買い込んだ。何でもいいから

心を落ち着かせる方法を探っていた。

買い込んだからといって、不安は解消されなかったが。

今思うと、何でこんなものを・・と思うような必要のない

ものをやたらに買い込んでいた。

夏休みは楽しいものなのに、どうにもならない不安で

私は混乱していた。夏の青空は、私には眩しく映らなかった。

見える景色が違った。私は違う世界にいるようだった。

何もしていないのに激しい疲労感に襲われる。

寝ても寝ても疲れはとれない。これを病気だと気付くことは

当時の私にはできなかった。知識もないし、今のように

メンタルに関してマスコミが大きく取り上げることは少なかっ

たから、私は自分のおかしさをどのようにすれば解決できる

のかがわからなかった。まあ、報道されていても私が気付か

なかっただけなのかもしれないが。

症状は教室の外でも現れていた。通りすがりの女子高生が

高らかに笑っているのを、私に対して笑っているのだと思った。

私は笑われている。そして悪口を言われている・・。

いつもなら楽しいはずの夏休みが、怖い世界に包まれた

夏休みとなった。

今までには体験したことのない世界だった。

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更なる危機

中学三年生の秋。新学期が始まった。

学校では体育祭の練習が毎日あった。

学校が始まって何日かたったある日のこと。

いつものように体育祭の練習を終え、お昼に教室に戻ったとき

のことだった。教室では皆、給食を食べる前の準備をしていた。

椅子に座っていたが、私は急に心臓がドキドキし出し、

「いつもと違う」感覚になった。何だ、これは・・・。

自分を落ち着かせようと思い、うがいをしに行った。

それを数回繰り返した。しかし、落ち着くどころか、焦燥感が

私を襲ってきた。「どうしよう」。机に突っ伏していると、友達

が私の変化に気づいて、床に寝かせてくれた。過呼吸の発

作が起きたのだ。ハアハア苦しくて、物凄く怖かった。この

ままどうなってしまうのだろうと思った。手はガチガチに堅

くなり、震えて痺れて、冷や汗が出る。そして気が遠くなる

感じだった。私はわけが分からなくて、泣いていた。怖か

った。数分後には治まったが、発作後はぐったりと疲れて

いた。

この発作はこれ以後、ほぼ毎日起きた。私は「また発作

が起きたらどうしよう」という不安でいっぱいだった。毎日

が怖かった。朝になって学校に行くのが嫌だった。けれど

も、「学校には絶対に行く」という信念を持っていたから、

どんなに不安でも学校には行った。

そのうち、自分でも発作が予期できるようになってきた。

「ああ、まずい・・・」と思ったら、自分で保健室に向かうよう

にした。教室で発作が起きるとみんなに迷惑がかかるし、

そんな状態を皆に見られているのも嫌だった。だから

保健室に行った。普段、よく眠れていないこともあり、

保健室では過呼吸の発作の後、寝ていた。ちょっとした

ずる休みだな、と思いながら。いろいろな先生が心配して

くれた。若い女の先生は、「何か心配ごとがあったら話して

ね」などと言ってくれた。私が発作で保健室にいるときに、

先生と保健の先生が「何か悩み事でもあるんでしょうかねえ」

と話しているのが聞こえた。悩み、といえば悩みなのかもしれ

ないが、はっきりとした私の不安原因は私自身、わかっていな

いのだから仕方がなかった。私がおかしくなったのです、と

いっても通じないからだ。自分の感覚がおかしくなったことを

どうやって相手に伝えたら良いのだろうか。言葉に表すこ

とは難しかった。必死に訴えてみたけれど、伝わらなかった。

もう、誰にもわかってもらえないのだと思った。

それからは、他人にわかってもらおう、とは思わなくなってい

った。発作が起きてどうしようもなく不安なのだけれど、

私は不安を自分の中に押し込めてしまった。

諦め、のようなものだったと思う。どんなに不安でも怖くても

私は学校には行かなくてはならない、と思っていたから

監視されていて、発作の起きた場所である恐ろしい教室

に毎日通った。地獄だった。

冬の頃までには発作は起こらなくなった。しかし、不安感

はずっと私を覆っており、怖い感じがしていた。

この記事を書くことができるのも、時間が経って、私の

記憶が薄れてきているからだ。怖くて思い出すのも本当は

嫌だ。けれど、私は今、発作を起こすことなく、きちんと

記事を書くことができている。目を背けずに、振り返ること

ができている。この不安発作から、私は離脱することが

できたのだろう。

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卒業

私は私立の進学校に合格した。

勉強なんかとてもできる状態ではなかったし、成績も

落ちていたが、なんとか入試を終えることができた。

行きたい公立高校があったのだが、成績が落ちてい

た為に合格は無理だろうということになり、受験

しなかった。

「中学校は嫌な場所」という思いを持ちながら、

私は中学校を卒業した。しかし、今になって思い

返せば、症状が出る前は部活がとても楽しく、嫌なこと

だけではなかった。楽しいこともたくさんあったのだ。

その思い出に浸ることはなく、ただ逃げるような思いで

私は卒業した。友達もみんな嫌な人、と思い、連絡を

絶ってしまった。私に対する悪口が、実際にあったのか

どうか、ということは私にはわからない。同窓会にも

誘ってくれたし、卒業後に遊びに誘われたりもした。

卒業のときには手紙をもらい、「別の高校に行っても

頑張ってね」などという言葉が書かれていた。

友達が私に対して攻撃的であったり非難をあびせたり

するようなことは、  

なかったのかもしれない。

今、客観的に見ると、そうなのかもしれない。

私の心には、中学校は嫌な場所、と刻まれていて

友達もみんな意地悪で・・・。事実は私にはわからない。

ただ記憶に残るのは怖くて嫌な世界だったということ。

中学校の卒業を機に、私は中学生活の記憶を封印する

ことにした。新しい私で高校生活を過ごそう、と思った。

友達づきあいも徹底して絞り、同じ高校に行く友達以外

の中学の友達とは、連絡を自分からは一切取らなかった。

そうでもしないと、不安に押しつぶされてしまいそうだった。

怖い世界を全て忘れてしまいたかった。今まで起こった全

ての怖い出来事を、白紙にしたかったのだ。

15歳の春だった。

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症状との闘い1

入学した高校では特進コースというのに所属していた。

つまり、受験のためのコースである。入学したときから

受験に対する教育がなされていた。

新しい友達。新しい先生。新しい環境に慣れるために

みんながドキドキした感じだった。そんな中で私は

またもや感覚の危機を迎えていた。

学校まで1時間半かかるため、朝は早い。

早朝の電車に乗ると、手が痺れてきて足ががくがくした。

目の前が真っ暗になる(心、ではなく実際に)。

何度も電車の中で過呼吸発作を起こしそうになった。

けれども、「ここで倒れたら終わりだ」「絶対ダメ!!!」

と自分に言い聞かせ、なんとかギリギリのところで耐えた。

そして電車内で強い視線を感じ、冷や汗をかいていた。

駅のホームに立つと「飛び込め」と頭の中で言われる。

私はそれと必死に闘っていた。「飛び込まない!!」

と自分の中で言い返すことを繰り返した。あと少しで本当

にその指令通りに飛び込むところだった。ギリギリのとこ

ろで飛び込まずにいた。この闘いは薬を飲むまで消えな

かった。また、教室でも監視されている感じは消えなか

った。例えるならば、教室がハイジャックされているよう

な感じなのだ。私は今にも殺されるのではないか、とい

う恐怖。一瞬でも気を抜いたらダメだ、という危機感。

急に朝のHRで叫びたくなったが、「ダメ!!!」と私を

必死に抑えて、こらえた。陽性症状が出ていたのだろう。

頭の中はぐちゃぐちゃで、ずっと何か会話が繰り返されて

いた。それが邪魔で私は考えることができない。

言葉の意味もわからなくなった。友達に「おはよう~!」

と言われて、意味がわからなくて、固まってしまった。

本当に、意味がわからなかったのだ。状況を説明すると

友達が近づいてくる→私に喋りかけてきた→その言葉

は「おはよう」→「おはよう」の意味は→朝の挨拶→

私はこれに答えなければならない

ということをいちいち考えなければわからなかった。

授業中も言葉を理解することができなくて困った。

先生に指名された私は、

私が指名された→私はそれに答えなければならない

→その質問は~である→その答えはええと・・

という具合である。普通ならば一瞬でこれらのことが

考えられるのに、できなかった。その場は、私が質問

に答えられなかったという風に捉えられて終わった。

混乱していた。そして不安感でいっぱいだった。

と書くと穏やかに思えるが、実際のその「不安感」

は生ぬるいものじゃなかった。今この一瞬が不安で

たまらない。一秒たりとも心が休まるときはない。

どうしたらいいのかわからなかった。私が誰だかも

わからなかった。名前や住所は言える。しかし、

私は一体どういう性格でどんな人間なのかというこ

とが、わからない。自分が誰だかわからないというの

は恐ろしいことだった。脳の奥が痛いという感覚も

あった。脳が萎縮するような感じだった。

こんな状態で勉強ができず、しかも進学校である

高校にいた為に、私の成績は最悪だった。

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症状との闘い2

あまりの不安感に私は今まで生きてきた中で

初めて本当に「限界」だと思った。耐えられないと思った。

このまま生きていくのは不可能だと思った。

その不可能さは中学三年生でも感じていたが、

高校生になってからは本当に無理だと思った。

今までぼんやり考えていたことをはっきりと行動に移そう

と思った。

―自殺。

中学生のときもそれは考えていた。しかし「なんとなく」行動

には移さなかった。症状がたくさん出ていて、これ以上生き

ていくのは無理だと思った。そこで私は決断することにした。

「自殺をすることを」ではない。「自殺をするかしないか」だ。

私は選択肢を作った。

1.死ぬ

2.辛さを放置して生きる

3.少しづつでも何かしら努力して生きる

これを真剣に二日くらい考えて、決断した。

まず、自殺する場合。

方法はいくらでもある。自殺マニュアルをちらりと見たことも

あった。ただし楽に、完全に死ねる方法を選ぼうと思った。

私が死んだら・・どうなるのだろうか・・。いろいろ考えるうち

に、私は気がついた。私が死んだら親は「子を亡くした親」

になる。私が死んで悲しいかどうかは、私自身が感じる

感情ではないので、わからない。しかし肩書きは必ず

「子を亡くした親」だ。そして弟は「姉を亡くした弟」にな

る。その肩書きは親、弟共に生きている間は一

生消えない。私が死んだらそれを背負わせることになる。

そもそも、何故私は死にたいのだろうか・・・。

考えていくと、私はこの「辛い状態」から抜け出したくて

自殺したいと思っているのだということに気がついた。

そうか。私のこの「辛さ」がなければ、死ぬ必要などない

のだ。じゃあこの「辛さ」をなんとかすればいいのではな

いか。このとき、本と音楽も私を生の方向へ向かわせた。

ぐちゃぐちゃな頭でも、「感覚」を感じ取ることはできたのだ

。私の読んだ本は、「辛さ」が現れていた。その辛さを

感じることで、辛いのは私だけじゃない、と思えた。音楽も

歌詞なんてわからなかったけれど、辛さを表現していた。

辛さをわかってくれるのは本と音楽の世界だった。

私と同じ辛さではないのだけれど。

次に、放置した場合。

絶対に無理だ。この状態を放置して生きていけるはず

がない。辛すぎるので却下。

結果、私は3を選んだ。

どうにかしてこの状態を変えていこう、と思った。

このおかしな状態は、精神に関するものだろう、と思った

ので図書館に行き、心理学の本を何冊か読んだ。

そこに論理療法というものがあった。

「過去に不幸なことがあっても、そのために将来幸福を

味わえないということはない」という文を発見する。

そうだ。過去の不安にしがみついていても仕方がない。

問題はこれからどうするかだ。自分の辛さに対して私は

「対処法」なるものを考えた。電車の中での視線に対し

ては「寝る」「本を読む」などである。強烈な視線を感じる

のでそれと闘う方法である。教室では先生と目が合うこ

とが怖いので目を絶対に合わせないようにしていた。

このころの生活は、人間としての生活をギリギリのところ

で保っているという感じだった。とにかく「学校に行く」とい

うことをしようと思った。勉強なんかできないから、とりあ

えず学校に行こう。行くことで私は人間としてやっとここ

に存在することができるのだ。

自分との闘いだった。「このままおかしくなってたまるか」

と思っていた。一瞬でも力を抜いたら、負けてしまいそう

だった。自分で自分の状態を見ておける力は絶対に

離してたまるものか、と思っていた。この思いが症状を

抑えた、とは言えない。医学的にもそんなことは言えない

のだと思う。しかし、あのときに力を抜いていたら、マトモ

な生活を送れていなかっただろうと思う。普通に皆と同じ

ように卒業、進学はできなかっただろう。もっとも、そこで

私が力を抜いて、おかしさを露呈し病院に行っていた

方が私にとって良かった、という見方もあるが。私は

「普通」でいたかった。おかしくなるのが嫌だった。

皆と同じように普通に生活したかった。ただ、そのと

きに休養と薬で普通の生活が送れていたかもしれない

ということを考えると、少し残念だ。しかし既に、自分の

おかしさは誰にもわかってもらえないのだという考えを

硬く持っていたから、おかしさを訴えることはしなかった

。自分でなんとかしようと思った。しかし自分を見ておけ

る力、を残した、大半の私はどこかへ行ってしまった。

私がいなくなってしまった。

自分が病気だとは依然として思っていなかった。自分

におかしなことが起こるけれどもそれが病気だなんて

思わない。私が調べた心理学の本にも病気のことは

書いてあったはずだ。しかし、妄想を妄想だと思えな

い、幻聴?(なのかはわからないが)を幻聴と思えない

状態なので、わからなかったのだと思う。そのときは

とにかく「どうすればこの状態に対処できるか」という

ことを考えていた。

高校一年生のうちに、私はこの対処法で生きていく

術を身につけてしまった。辛いことは辛いが、その場

しのぎで耐えることができるようになった。教室では

ずっと下を向いていた。皆の視線が突き刺さるからだ。

私はおかしな、そして辛い世界で生きる方法を見つけた。

このときに一番必要だったのは、薬物療法だろう。

それを行わずに闘ったことに関しては、不幸だという見方

もあるが、これは私は「仕方がなかった」と思っている。

頑張らなくてもいいことを私は必死に頑張ってきたことに

なる。誰にもわかってもらえずに辛かった。しかし、世の

中、どうにもならないことはあるものだ。これは私が経験

すべくして経験した辛さなのだろうと思う。症状が出るまで

の人生の中で本当に辛い、と思ったことはなかった。

人はそれぞれが何らかの辛さを抱えて生きている。

その当時の私は人のことなんて考える余裕はなかった

けれど、今の私には人の辛さを感じることができる

幅ができたように思う。そして、もう怖いものは何もない

という思いだ。この経験以上に辛いことはない、と思え

るのだ。様々な年相応の辛さ、というのは経験するけ

れど、それを「辛い」と思わない。あの体験よりはマシ、

と思えるのだ。少々のことではへこたれない強さが

身についた。こう書くと、利得を強調しているように

見えるが、そういう風に考えることで私は生きていける

のだ。過ぎたことを悔やんだところで、辛いのは自分だ。

私はあのとき、1.を選んでいたら今はこの世にいない。

究極の選択を、私は間違えなかったのだと思う。

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誓い

私は死なずに生きていくことを選択した。

この選択について、私は自分と誓いを交わした。

ここで「生きる」ことを選択するのは、この先もう二度と死ぬ

ことを決意しないということだ。私の心は誰かにのっとられ

てしまって、頭の中では「死ね」「勉強しろ」などという指令

が出る。しかしこれに負けてはいけない。気分も不安定に

なることが常で、また「死のう」と思うことがあると思う。

けれどもここで私は自分自身に誓ったのだから絶対に

逃げない、ということだ。「いい?絶対にこの誓いを

破っちゃだめ」と、私に言い聞かせた。頼れるもの

は何もなかった。自分の力でなんとか生き延びなけれ

ば、と思った。何度も人の力を借りようと思ったけれど

私の辛さは通じないのだとわかったから、自分でなんと

かしなければならないと思った。学校は進学校なので

成績が悪いと先生には良い印象を持たれない。

面談などで「もっと勉強しろ」というようなことを言われた

りもした。しかし、私はそれを無視することにしたのだ。

今までの自分だったら有り得ない。悔しくてたくさん勉強

して見返してやる、と思った。当時、一瞬そう思った。

だが、私は立ち止まって考えてみた。今私は勉強なんか

している場合じゃない。それどころじゃない。だからとい

ってこの辛さを先生に話したところで、どうにもならない

ことはわかっている。成績が悪いことはものすごく悔し

くてプライドを傷つけられることだけれど、今は勉強する

べき時じゃない。私が生きていくためには、この辛さを

どうにかするべきなのだ。そう思ったから、先生たちの

お小言をすべて無視し、「私は私でいいんだ」と自信を

持って堂々と悪い成績を取ってやった。中学からの

友達もいるし、本当に悔しい思いをしたけれど、無理

なものは無理なのだ。本当ならば学校を休学や退学

くらいしてもよさそうな状態だった。それから比べたら

成績が悪いことなんてちっぽけなことだった。こんな

「事情」を知らない先生たちは私の心にグサグサと

土足で入り込み、めちゃくちゃにしていった。

悔しかった。しかし、あの当時私は自分にできること

を精一杯やっていた、という自負がある。確かに

成績は見るも無残だったが、私は死なずに生きよう

という決意をしたじゃないか。それだけでも私の価値

はあるんだ。そう思って生きていた。学校という世界

では価値のない人間だったかもしれない。けれども

私は一生懸命に生きている。そこは駄目じゃない。

自分のできる範囲を精一杯していることに誇りを

持とうと思ったのだ。私、という小さな世界の中

だけに通じる誇り。これを信じて私は生きていった。

そして今生き延びて、後で見返してやる!!

と思った。ここで死んだら私は単なるお悩みによる

自殺。そんなの悔しい。私の辛さがわけのわからな

いままに終わってしまうのは絶対に嫌だ。

とにかく生きよう、と誓った。

この「誓い」は今も破られることなく、未だ

私の中の核心部分となっている。

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家での私

家での生活も普通ではなかった。

家族に知られるのが嫌だったので勉強、と称して部屋に

こもる毎日。私の頭の中はぐるぐる思考が巡る。

症状を家族に知られるのは絶対に嫌だった。だから私は

普通だよ、というように「普通」に振舞うことを心がけていた。

学校から帰ってきて、ご飯を食べたらすぐに自分の部屋へ

向かっていた。親も勉強しているものと思っていた。だから

不審には思わなかったのだろう。というか、そう思われない

ように必死に努力していた。部屋の中では頭の中の混乱

を紛らわす為に、音楽を大音量で聴いていた。

ALL REPEATで何時間も聴いていた。学校の予習・復習

をしようと頑張っていたのだが、文章の内容を理解するの

がまず大変なので時間もたくさんかかった。

休みの日には一歩も外に出なかった。外に出るのが

怖かったから、出られなかった。自分の部屋の中で、

おかしさとずっと闘っていた。

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コミュニケーション不能

私は人とのコミュニケーションができなくなった。

私の頭の中は誰かにのっとられてしまっているので

「私」の考えがなくなってしまうのだ。意見が言えない。

友達との会話に困った。今までならできた雑談が、

できない。元々できないのならまた違う話だ。

今までできていたことができない、ということは辛いこと

だった。女子高生という時期に、会話ができないという

ことは、辛いことだった。友達もいた。けれども会話を

どうやってしたらいいのかがわからない。とりあえず

相手の話すことに答えるのが精一杯。私から発信する

ことが、できない。頭の中はぐちゃぐちゃなのだが、

本来の私の頭は真っ白、といった感じだった。

何も言葉が出てこないのだ。私がいなくなってしまって

自分を探す毎日だった。

当時一応彼氏がいた。しかし、その彼は私ではない

私を好きになったのだ。喋れない私。「おとなしい」と

いう印象なのだろうか。私の方は好きだとか嫌いだとか

いっている場合ではなくて、とにかく誰かにすがりたい

という思いだった。彼がたくさん喋って私はそれに応じる

という関係。私の本来の性格は出てこない。

他の人が見ればカップルだ。しかし私はどこかおかしい

感じがしていた。それもそうだ。だって私じゃないのだから。

数ヶ月彼氏、彼女をやったけれど、本当の私ではないから

嫌になって、その関係を終わらせた。彼はどれだけおかしい

「私」を理解したのだろうか。

高校二年生の春だった。

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自己流SST

高校一年の頃から私は自分にできることを

やっていこうと、電車の車内での視線対策に始まり

「学校に行くこと」を通して自分なりに訓練してきた。

そして高校二年生の夏休みにその訓練の幅を広げた。

夏休みの夏期講習(電車を使って行く場所だった)を

利用したのだ。名目上は夏期講習。私にとっては

訓練だった。電車に乗り、一人で出歩く。今までは

怖くて外に出るのが嫌だったけれど、少しずつ、外に

出るようにした。勉強なんか頭に入るわけがないので

講習は外に出るための訓練でしかなかった。

電車に乗ると心臓がドキドキして冷や汗が出て

発作を起こしそうで、人の強い視線を感じて倒れそうで

・・・と様々な恐怖に駆られるわけであるが、それに

立ち向かおうと思った。まず、電車に乗ったら「大丈夫」

と私に言い聞かせる。そして座ると人の視線が突き刺さるの

で、立つ。その位置はドアのところ。そうすれば人の視線を

モロに感じなくて済むのだ。それを発見した。人の近くに

行かなければいいのだ。講習に一人で出歩くことはかなりの

訓練になった。また、講習が終わってからも、図書館に行って

勉強することにした。コンビ二に買い物に行くようにもした。

普通、これらのことは当たり前のようにできる。しかし、当時

の私は監視されている中で、また、過呼吸の発作が起きない

だろうかという不安を抱えていたので、この当たり前のことが

とても大きな冒険だったのだ。店に入っても、レジで店員との

やり取りが嫌だった。私のことをこの店員は嫌がっている、

などというように、相手の気持ちが私に伝わってくるのだった。

それも、いつも嫌な言葉で。これを全ての環境において感じ

るので、それと闘いながらの訓練だった。

例えば通りすがりの人が「あの人変な顔じゃない?」

「あの人太ってるよね」などと言ってきたら

「私のことじゃない」と心の中で言い返すのだ。

本当は私に対する中傷はなかったのだと思う。

当時は見ず知らずの人が全員私に中傷するという世界の中

にいた。とにかく心の中で言い返して、闘っていくことにした。

この訓練により、私は外へ出ることが怖いというのは変わらな

いのだけれど、闘いながらもできるようになった。

学校に通うこと自体、SST(social skill training)であった。

私は勿論、SSTという言葉すら知らなかったし、完全に自己流

の訓練だった。しかし、学校に行かなければ人とのコミュニケ

ーションは完全に切れていたであろうし、生活のリズムも狂っ

ていっただろうと思う。学校に行くことは辛かったけれど、私が

社会性を失わずにいられたのはこのおかげだと思う。

学校に通っていなければ、私は完全に引きこもっていて

人とコミュニケーションすることはなかっただろう。

学校は絶対に行くものだと決めていたから、そこは譲らなか

った。毎日の「普通」の生活でさえも物凄く大変なことであっ

たが、外に出るという訓練によって自信をつけることができた

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一つの山

高校三年生になった。

この頃には、もう私はおかしな世界で生きていく術を

完璧に身につけていた。三年間必死に試行錯誤したことに

よって、不安や苦痛を感じながらもなんとかやっていくことが

できるようになってしまっていた。普通に考えれば薬を使って

もっと楽に生活することができた。しかし薬を使うという

発想自体が当時の私には浮かばなかった。病気、という意識

がなかったためである。ずっと、自分の努力でどうにかなる

ものだと思い続け、なんとかやり過ごすことを覚えたのである

。そんな高校三年生の夏である。受験だ何だ、と忙しい時期

であった。通信教育についてきた雑誌にふと目がいった。

心のことに関してだった。読んでいくうちに、ああ、私の症状

と同じだ、と思ったのである。中学三年生のときの過呼吸

発作のことがずっと頭から離れないままであること。

未だに不安感があるということ。ここで私はパニック障害とい

う言葉を知るのである。心臓がドキドキして手足が痺れ、死

ぬのではないかという不安感・・・。もう、私の中に渦を巻いて

いた謎が一気に解明されたような感じだった。ずっと、何だろ

うと思っていた。過呼吸の発作も含め、私はそれらの不安感

に病名があることを知った。すごくホッとした。ああ、やっと

謎が解けた、という感じだった。そして今までのおかしさは

全てパニック障害のせいだと思った。当時はまだパニック

障害について特に報道されていなかったので、それを

知ったときには安堵感で一杯だった。私だけではないのだ

ということを知ったからである。しかし、私はパニック障害

と医師から診断されたわけではないので、ただ、症状が

当てはまった、というだけである。過呼吸と共に訪れる

発作が、パニック障害の症状と一致すると自分で思った

だけである。だから何とも言えないのではあるが。

そのときは、とにかく今まで分からなかったことが

はっきりとした、という感覚ですっきりした。自分で努力

してきたことが認められた、と言ってはおかしいのだろうが

そんな感じだった。まあ、病名なんてどこからどこまでが

何、というように振り分けられるものではないから、そんな

に大きな意味を持つわけではない。しかし、自分で何が

何だか分からずにいたことが分かったことは嬉しいこと

だった。その後にパニック障害の症状以外の症状が

ある自分に疑問を持つことになるのだが。

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過呼吸発作

高校三年生の秋。

模試ラッシュで受験一色だった。休日は模試。

また次の週も模試。そんな生活だった。

休みがないという状況が続き、何週間か経ったある日。

朝、バスの中で胸の奥がハラハラしてくるような

ものがあった。一時間目が始まり、私は自分

と格闘していた。どうしよう。ここで過呼吸の発作が起き

るのだろうか。それとも耐えられるのだろうか。

授業どころではなく、今どう行動すべきかを考えていた

。教室で発作が起きれば、皆動揺するし、迷惑がかかる

。それは中学校のときに体得していたから、前兆の時点

で保健室に向かうという方法は身につけていた。

今回は、耐えるのは無理だと思った。だから教室の後ろ

の席から黒板のところにいる先生のところに歩いて行き

「具合が悪いので保健室に行きます」と搾り出すような

声で言った。先生はいきなり私が前に出てきたから

とても驚いていた。そして保健室まで小走りで向かった。

校舎が大きいので教室から保健室までは遠かった。

ああ、もうだめかもしれない・・と途中で思ったが

なんとか保健室まで辿り着いた。心臓はドキドキし、

胸がハラハラし、呼吸は乱れる。「過呼吸になりそう

です」と言ってベッドに寝かせてもらうとすぐに

激しい過呼吸発作に襲われた。

手足が痺れる。気が遠くなる。苦しい。中学三年以来

だった。ずっと発作が起きないように、と恐れて我慢

して気をつけてきたのに、起きてしまった。

そして保健室の白い天井を見つめながら

「ああ、またここに来てしまった・・」と思った。

保健室は発作が起きた嫌な場所だった。発作が起きる

と心が動揺してしまうことは自分でも分かっていた。

だから「いつもと同じだよ」と思う為に、一時間くらい休ん

ですぐに教室に戻った。そして普通に授業を受けた。

三年ぶりに発作が起きてしまったことは、ショックだった。

なるべく発作のことを考えないように努めていた。

数日後。また私は前兆を感じた。

だから誰にも言わずにこっそりと保健室に向かった。

友達は、私がいないことを心配したらしい。

保健室に行ったが、このときに過呼吸の発作は起き

なかった。前兆で終わったようだ。しばらくは発作の

恐怖で埋め尽くされており、それを感じないように

するので精一杯だった。

ずっと発作が起きないように、と思っていたことが

起きたことの衝撃を自分の中で必死に抑えていた。

受験シーズン突入の秋だった。

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受験

受験本番がやってきた。

私の頭の中には「勉強しろ」という指令が出る。

「学校に行け」「勉強しろ」という指令はいつも出る。

私はずっとそれに従ってきた。悪いことをしている

わけではないから、誰も私の行為がおかしいとは

思わなかったのだろう。異様なほどに完璧なスケジュー

ルをたて、それに従って勉強した。普通、人間ならば

勉強できる日もあればできない日もある。しかし私は

毎日決めた時間きっかり勉強し、機械のような生活

を送っていた。勉強、といっても文章を理解することが

困難だった為、とにかく点数を取る方法を身につけた。

付け焼刃的勉強だったかもしれない。勉強の中身なん

か理解できていなかった。とりあえず暗記して問題を

解く、くらいしかできなかった。暗記もすんなり頭に

入らない。すぐに忘れる。おかしくなる以前の暗記力と

は違っていた。勉強できる状態ではなかったのだろう

が、それを無理やりこなしていた。

受験は、偏差値に見合った計5校に合格した。

しかし、私はもっと偏差値の高い大学に行きたいと思

い、浪人を決意した。そんな状態で偏差値が伸びる

とは今からすれば思えないが、当時はまだやれる、と

思っていた。費用を出してくれた親には感謝している。

先生は私が合格を出しているにも関わらず浪人する

ことに少し驚いていたようだ。でも自分が決めたことな

ら頑張るようにと言われた。今から思うと本当に変な

受験だった。自分が行きたい大学を受験していなかっ

た。適当に、偏差値に見合った大学を受けた、という

感じである。私の「意志」が何だかわからなくなってい

た。私は頭の中に出る考えの通りに行動してきたから

なのだろう。頭を乗っ取られてしまった状態なので、本

来の私の意志は出てこない。普通ならば高校生という

時期は、将来を考えて自分の方向性を考えるときな

のだと思う。大学に行かなくても良いし、自分の道は

自分で決めるのだ。まあ、進学校だったので大学受

験が当然という環境だったが。

私は自分の方向性を考えることなく受験をしていた。

自分の未来の設計図を立てる時期を、私はただ

ひたすら頭の中に浮かぶ考えによって過ごした。

受験は凄く緊張したし、食欲もなくなった。

「何分でこれを解かなければならない」という

プレッシャーは大きかった。誰かに私の生活全てを

監視されているような気がしている中での受験だった。

普通の緊張とはまた違う緊張感だった。

受験に対する怖さと症状としての怖さがミックスされて

とても恐ろしい状態だった。「誰か助けて」と思っていた

が、どうにもならなかった。

大学に合格はしたけれど桜を来年に持ち越すことを

決意したので、春はまだ遠かった。

実際、春とはいっても合格=春ではなかったが。

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宙ぶらりんの一年間

浪人を決めた私は予備校に通っていた。

大学に全滅したわけでもないし、気持ちがそれほど

沈んでいるわけではない、と思っていた。

しかし、現役時代の受験のストレスは私に大きな影響を

与えていたようだ。まず、自分の部屋にいると、外を走る車

の音が異様に大きく聞こえるようになったのだ。あたかも

私の耳元で走っているかのようだった。更に食べ物の味

が分からなくなった。そして眠れなくなった。緊張状態は

続き、「人に見られている」という感覚が強かった。

予備校は勉強をするところで、あまり人とコミュニケーション

を取らなくて良いので、その点は楽だった。予備校といって

も、講師が話すことをしっかりと頭に入れる余裕はなかった

から、ほとんど聞き流している状態だった。お金の無駄だが

生活を整えるという点では効果的だったのかもしれない。

授業も受けていたし、自分でも勉強した。勉強さえしていれ

ばいいという環境は、高校生活よりは楽だった。

ただ、教室での先生の視線は相変わらずに怖かった。

先生に監視されているから怖くて顔を上げることができな

かった。だから先生が板書している間にすばやくノートを

取る、という技を使っていた。これは高校時代からの技

である。浪人生は正規の学生ではないから、どこにも

属さないという宙ぶらりんの状態。だから身を隠している

ような、そんな気分だった。

一年はあっという間に過ぎ、また受験の季節がやってき

た。ちょうどその時期に私は体調を崩し(もともと崩れて

いるが)、予備校に行くことができなくなった。まあなんと

か体調を取り戻して受験したが。怖い世界の中で一人

出歩くということは物凄く恐ろしいことだった。

結果は、大体の目安として「この辺は受かるだろう」と思

っていた大学にまで落ち、たった一校だけ受かった。

この意味を後で私は思い知ることになった。

そのときは「あーあ。」という感じで「晴れて入学」という

感じではなかった。二浪するのもなあ、と思い、半ば

諦めたような気持ちで手続きをした。入学までの間、

私はずっと寝潰していた。体力もなくなり、ちょっと買い

物に行くだけで疲れてしまう、そんな感じだった。

浪人生活は、まあ仕方ないか、という結果で締めくくり

となった。

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新しい生活

嫌々母親に連れられていったような入学式。

雨の降る入学式だった。ここから新しい生活が始まった。

とはいっても大学までは自宅から通学なのでそれほど

変化があるわけではなかったけれど。

新しい友達もできて、とにかく私は「明るく楽しいフリ」

をしていた。みんなに合わせる為である。その技術

さえ身につければなんとかやっていけるのだった。

だが体調は最悪で、朝の電車に乗ると貧血でフラフラ

していた。そして一年生の単位をきちんと取ると

一日大学で過ごすことになる。それがまたきつかった。

朝から頭は割れるようにガンガン痛いし、午後になると

(それも夕方になると特に)すごく疲れて酔ったような

感じになっていた。すごく疲れる。それでも私は休む

ことができなかった。個別指導の塾でバイトを始めた。

個別の為、一人一人に教える。人が苦手なので

わざと人に接することでそれを克服しようと考えた。

普通に話すことがとても大変だった。おかしくなる前に

はある程度人と話すということができたのだけれど

おかしくなってからはそれが難しくなっていた。

自分のおかしさをどうにか克服できないか、と模索し

ていた。生徒の前では逃げられない。そういう環境に

自分を置いて、慣れようと考えていた。自分を使って

実験しているような感じだった。とにかく何かをしてい

ないと不安で不安で仕方がなかった。大学の教室の

中でも視線と妄想はきつかった。先生からの視線は

相変わらず怖くてずっと下を向いていた。そして

そこらじゅうで喋っている学生の声が、全て私のこと

を言っているようだった。電車の中の人が喋っている

内容も全て私への中傷だと思っていた。それにひたす

ら耐えていた。私のおかしさは心理学の範疇だろうと

思っていたので、心理学の講義を取った。そのときに

病気として統合失調症のことも扱った。しかし、それら

は抽象的で実際の私の症状と重ねてみることはでき

なかった。全く気がつかなかった。いろいろ自分の

おかしさは何なんだろうと探っていた。本屋に行けば

心理学の本を見てみたりもした。私の模索活動は

完全に私一人で行った。親にも絶対に話さなかった

し、誰にも相談することはなかった。ずっと一人で

抱え込んでいた。相談する、という能力がなかった

のかもしれない。今まで私に起きた全てのことは

あまりにも怖すぎて、言葉にすることができなかった

のである。だから話すことはできなかった。

そんな大学生活の始まりだった。

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カウンセリング

大学一年生の秋。

私はパニック障害について、以前から誰かに相談しようと

思っていた。いろいろ考えてきて、パニック障害という言

葉を知った雑誌に載っていたカウンセラーに直接会いに

行けばいいのではないかと思っていたのである。

これも一人での計画。そのカウンセラーのいる機関を

携帯電話で探した。パソコンから調べると、調べたことが

誰かに漏れるのではないかという恐れを抱いていた。

携帯電話も怪しいと思ったが、調べる方法はそれだけ

だと思って使った。機関の電話番号を得たときは安堵

感のようなものに覆われた。今まで誰にも話すことの

できなかった世界から解放されると思ったからである。

機関に電話することをやっとの思いで決意し、電話を

した。携帯電話からかけると、これもまたかけた番号

が誰かに知られると思い、わざわざ公衆電話からドキ

ドキしながらかけた。私は人生において初めてのカウ

ンセリングの予約枠を獲得した。カウンセリングでは、

私が今までしてきたことを話そうと思った。今までは

言葉に表すことができなかったことを、話そうと思った

。相当な覚悟がいった。だから何度も念入りに言う事

を確認したりしていた。カウンセリング当日。学校の

帰りに行った。親には適当に、買い物とか何とか行

ってごまかした。今まで写真でしか見たことのなか

ったカウンセラーと初のご対面である。私は緊張し

ながら話した。私が今までやってきた対処法につい

てなどを。死のうと思ったことも初めて口に出した。

中学三年の過呼吸発作から5年間一人で抱えていた

不安を、初めて外に出したのである。緊張した。

カウンセラーは私の対処法を誉めてくれた。

これはパニック障害への対処法として話した。

カウンセリングは、私の対処法+完結に向かって

行われる、ということになった。

回を重ねるに連れて、パニック障害以外の症状

も話した。監視されているということは、ずっと

視線恐怖だと思っていた。鬱の気分があるということも

話した。しかしカウンセリングには限界があった。

薬を使うことをカウンセラーに薦められたりしたが、

私は小さい頃体が弱くて病院は嫌な場所、という

風に刻み込まれていたので、拒んでいた。カウンセラー

は、薬を使うことのメリットについて詳しく説明してくれた

が、私は拒み続けた。その他、人が私のことを嫌がって

いる、とか友達と一緒にいたくない、等々を話した。

カウンセラーは「友達といたくないのなら一人で居るとい

うこともできる」とアドバイスしてくれた。しかし、私は

友達でもそうでない人も私に関わってくるということから

解放されたかったのだと思う。それを上手く表現できなか

った。カウンセリングは極秘のもので、費用もバイト代か

ら出していた。そして途中で、「私は発作の不安からは

もう脱出している」と思い、カウンセリングをやめた。

カウンセラーが私の病気を疑っていたかどうかは疑問

だが、カウンセリングの終了時に、「一応」という

ことでクリニックを紹介された。学校に近いクリニック

と、都心にあるクリニックである。私はカウンセラーに

住所を教えていなかった。親に知れたら嫌だと思った

からである。秘密は厳守、ということにはなっていたが

どうしてもそこを信用することができなかった。

このカウンセリングが有効だったかどうかは分からない

が、とりあえず発作の不安からは脱出できた。私は

発作の不安を沈める方法を自分で考え出していた訳で

あるが、この方法で本当に良いのか、ということを確か

めたかったのかもしれない。それをカウンセラーに認め

てもらうことで安心できたのだろう。その点では良かった

が、カウンセリングを終了した後も依然として残る頭の

不快感。見られている感じ。私の悪口。これらはカウン

セリングではどうにもならないことだった。

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接客業

大学二年生の春、私はこれまでやってきた対処法を広げようと

思った。人が苦手で近くに行くとその人が私のことを悪く思って

いるということがわかってしまうのが嫌だった。

それをどうにか克服したいと思った。人が苦手ならば、人と接し

なければならない状況に自分を陥らせればいいのではない

かと思ったのである。塾を辞め、レストランでのアルバイトを始

めた。当然店では人間関係もある。私は自らを発することが

できない。自分というものがわからない。だから適当に自分

がどういう人間であるかを創作して話すことにしていた。

本来の私とは違う性格を相手に想像させ、とりあえず「私」像

を作った。職場の人たちが私のことを悪く思っているという

思いはいつもあった。客も私への悪口を言っているのだと

思っていた。でも、私は辞めようとは思わなかった。

ひたすら耐えたのである。そのうち、注文もぎこちないけれど

取ってこれるようになり、何より人の前に出ることが、嫌では

あるのだけれどもできるようになった。最初のうちは客の顔す

らマトモに見ることのできない状況だったが、慣れというもの

により、店員という形になんとかなった。物覚えも理解もすごく

良くなくて、一度言われたことをすぐに忘れてしまう。そして

何より、指示が理解できない。これには困った。何度言われ

てもわからない。意味が理解できない。仕事の大きな支障

だった。職場の人たちは何度も丁寧に説明してくれた。

感謝である。慣れるのには時間がかかったが、成長という

面で見れば、私は飛躍したと思う。元々人の前に立つような

タイプではなかったから、責任のある仕事をするということは

糧になった。荒療治だったが、人と会話するトレーニングに

なった。アルバイトに行くことで、「自分」を思い出すという

作業をしていたのかもしれない。朝起きたら、自分がいない

。真っ白になってしまっているのだ。一日かけてやっと自分

を作っても、また朝になったら自分がいなくなる。それが

怖くて仕方がなかった。アルバイトに行けば、仕事をしてい

るうちに、「仕事をしている自分」を思い出すことができた。

アルバイトは訓練の場であり、自己確認の場でもあった。

今考えれば、よくあんな状態でやっていたものだと思う。

頭の中がごちゃごちゃで、すごく疲れた。その疲れ方が

半端じゃない。睡眠の質が悪いこともあったのかもしれない

。学校が終わってアルバイトに行って、家に帰る頃には

ぐったりしていた。それでも私は、自分のおかしさが克服

できるのならばいくらでもやってやる、と思って頑張っていた

。休めないというのも、頭の中の指令によるものだったと

思う。いろいろ「やれ!」と指令されるから逆らえなかった

のだと思う。まあ、アルバイトで得たものは大きかったから

当時やっていたことは否定しないことにしようと思う。

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転機

私に転機が訪れた。大学二年生の冬だった。

大学の講義でビデオを見る機会があった。

とある映画。最初はぼーっと見ていた。

しかし、映し出されたスライドを見て私は衝撃を受けたのだ。

それはこんなシーンだった。

薬物中毒により、「私は監視されている」と叫び暴れる人。

外側から見ればおかしな行動。内側からは物凄く危機迫っ

た状況。映画を見たときには、何だかわからないけれど

とにかく私は凄いものを見てしまった、という感覚だった。

それから二、三日、ずっと衝撃から抜け出せずにいた。

そしてその衝撃がはっきりとしたものに変わった。

「あれは私だ」

そう思った。勿論、私は薬物なんかに手を出してはいな

い。薬物を使用しないで同じ感覚に至るのは「統合失調

症」らしい。インターネットで検索をしてみると、症状は

幻聴や妄想とある。確かに私の統合失調症に対する知

識の中にも幻聴や妄想、とある。しかし、私に幻聴や妄

想はないと思っていた。だって私は確実に監視されてい

て、確実に悪口を噂されていて、確実に笑われていると

思っていたのだから。今まで私が監視されていたのは、

私がそう思っていただけで、実際はそうではないのかも

しれない。そういう視点を持つことができた。私はすごく

衝撃を受けた。私は病気だったのか。視線が突き刺さる

のは単なる視線恐怖ではないのか!そう考えていくと、

今までの「?」が「!」にみるみる変わっていく。私のずっ

と抱えてきたこのおかしさは全て統合失調症という病気

なのだ。誰にも理解されない、たった一人ぼっちの世界

感は、病気だったのだ。離人感や睡眠の質の悪さ、鬱

の気分、これらは全てこの病気と考えると納得した。

今まで「これは何なんだろう」と必死に模索してきたこと

が、たった一回の授業中に、明らかになった。点でしか

なかったものが全てつながった、という感じである。

納得し、「やっとわかった」感が私を埋め尽くした。

辛いのに、何がなんだかわからないというのは、物凄く

辛いことである。風邪なら風邪だ、とわかるから皆安心

して生きていけるのだ。もし風邪が何だかわからなかっ

たら、あのゾクゾクする感じや体調の悪さに怯えるだろう

。だからそういう意味で、すごく安心した、という感覚だっ

た。次に私を襲ったのは、私は精神障害者なのか!とい

うこと。それは認めたくないけれどやはり今までのおかし

さは否定できない。まだ病院に行く前の段階だったが

私はこの映画により、私のアレは妄想なのか?とかアレ

は幻聴というのだろうか、と思うことができるようになった

。その視線で見ると、今まで自分のおかしさを探ってきた

中では統合失調症が一番当てはまると思った。しかし、

私からすれば、今まで6年間ずっと付き合ってきて、闘っ

て悩んで苦しんできたものが「病気」だと突然言われても

どうもしっくりこない。それも含めて私だし、含めなかった

ら過去の自分はどこに行ってしまうのだろう。どこからが

病気で、どこからが私なのか、という境界をつけることは

無理だと思った。だから病気を受け入れる、というよりは

私の一部が病気だった、という言い方が適切なのかもし

れない。それが障害であるという意識は持てなかった。

それから、いろいろ考えた。私はどうするべきなのか。

それでまた選択肢。

1 保健なし自費負担投薬治療

2 保健あり投薬治療

3 ほっておく

親には知られたくなかった。だから保健なしでバイト代で

払って隠し通して治療することも考えた。しかしまあそれ

も限界がくるだろうと思った。ほっておいたら・・・頭がガン

ガンする感じやその他の様々な不都合は取れない。

すごく考えてここは2かな、と思った。それが一番適切かな

と。それでも実際に行動に移すのはかなり勇気がいった。

今は私が病気と思っているだけだけれど、病院に行ったら

病気の判を押されてしまうような気がした。そこがネックだ

った。更に私は幼い頃体が弱く、二度肺炎で入院経験を

持っており、病院は嫌なところ、というイメージが焼きつい

ていた。薬も大嫌いだった。しかし、ここで私が踏み切ら

なければ誰がやる?と思い直し、大学三年生になった

4月、私は以前カウンセリングで紹介されたクリニックに

電話をかけた。家でするとばれてしまうのが怖かったの

で学校の隅で一人でかけた。

予約が一杯で5月になるということだった。

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通院開始

症状が出てから7年経って、やっと病院に辿り着いた。

初診では私の症状を話した。辛かったことを思い出して

嫌だったけれど症状が取れるなら良いと思った。

このときは医者に対しても攻撃的な話し方だった。

私に診断が下り、薬が処方されることになった。

最初は少量からだった。あまり効果がなかったので

量を増やしていった。すると私の周りが急に静かになり

しんとしてしまった。大学の大教室にいても誰も私の悪口

を言わない。いつもより人の数が少なく思えた。電車の中

もしーんとしている。家にいても時間がたくさんあるように

なった。今までは頭の中に現れる考えに時間を取られて

しまっていたが、それが全くなくなると、何をしたらいいのか

わからなくなってしまった。抜け殻のようになってしまった。

皆、こんな世界にいるのか、という感じだった。あまりの違

いに私は戸惑っていた。静か過ぎて寂しくもなった。

睡眠もたくさん取れるようになった。薬で眠気がきていたの

もある。今までの不眠を取り返すかのように、ずっと眠って

いた。まだ親には秘密だった。しかし「お腹の調子が悪い」

とか言って「病院に行く」ということは一応伝えておいた。

何たって保険証使うのだから。親にカミングアウトしたのは

7月だった。医者からも親に来て欲しいと仄めかされていた

し、このまま言わないわけにはいかないと思っていた。

親に着いてきてもらって、私からはとりあえず精神科に通っ

ているのだということを話すので精一杯だった。医者が病気

の説明をした。が、詳しくは話されなかったようなので症状に

ついてはよくわからないという状態であった。

親にも話し、通院を開始して、私はすべきことをした、という

感じだった。しばらくは異世界にいるように感じたが、これが

普通の世界なのだと思い、慣れることを心がけようと思った

。とりあえず学校に行き、休日にアルバイトをし、何も起こら

ない平穏な日々が繰り返された。私は未来に向かってどうの

こうの、とか考える余裕はなくて、ただただ感覚の違う世界に

慣れていくことをしていた。過去は怖すぎて振り返ることがで

きない、未来を考える余裕はない、そんなところだろうか。

同じ年頃の子たちは、未来のことを夢見ていろんなことを考

えているようだった。私には未来を描くような心の状態は備わ

っていなかった。ただ呼吸をして生きている、という無駄な

感じだった。まあ、生きている環境がまるで違うので、そうなる

ことも当然なのかもしれない。私が症状と闘っていた間に、同

じ年の子たちは、私よりもたくさん吸収しているのだなあ、と

考えると少し寂しい感じもした。成長すべき部分で私は成長

できていないから、幼いままだ、と感じることもある。

今は本来の私復活の為に少しづつ進んでいるところである。

そこは焦らずにゆっくりといけばいいかなあと思っている。

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私と病気

私は病気になって変化した。

人との付き合いも格段に減り、引きこもりがちである。

本来の私の性格はどこかへ行ってしまったとも思う。

病気になってよかった、なんて絶対に言えない。

しかし、不幸中の幸いというか、私が病気に気づくことができ

たことは、幸運だったと思う。現役高校生のとき、大学に合

格しながらも浪人を決意し、更に第一志望の大学に落ち、

滑り止めの大学に行くハメになったこと。これが、すごく縁の

あるものだったと思うのだ。私はこの大学であの授業を受け

ていなかったら、病気に気づくことはできなかったかもしれな

い。他の大学に行っていたら、未だに自分の症状に苦しんで

いたかもしれない。私が第一志望の大学に落ちたことは、実

は私にとって良いことだったのかもしれないと思う。私が病気

に気づくという出来事は、本当に「たまたま」のことで、授業が

受講者に対して気づかせるように、なんて意図したものでは

ない。それだから余計に私は大学との縁、先生との縁を感じ

ている。くどいようだが私は統合失調症についての知識は

持っていた。しかしそれが自分に当てはまるということに気づ

くことができなかったのである。カウンセリングで紹介された、

現在通っているクリニックの先生も、病気の専門サイトでコメ

ントしている先生で、病気について良く知っているようだった。

私は紹介されたからただなんとなくクリニックに行ってみたと

いうだけで、病院を選ぶ、ということはしなかった。だからフラ

フラと彷徨っている私がきちんとした治療を受けられたのも、

これまた縁だと思う。治療過程で10kg太ったり(戻ったが)、

細かな症状は拭いきれないが、薬を服用する前より物凄く

楽になったことは確かだ。前よりも笑えるようになり、病気

になる前の自分に少しづつ近づいているようにも思う。自

分が自分でいられることは重要なことである。私は薬を飲

むまでの7年間、別の世界を旅していたような、そんな感

じがする。辛くて苦しくてどうしようもなかったが、生まれて

初めて私は自分独りの力で物事を片付けた、という気が

する。いつも誰かを頼って助けてもらってばかりだったが、

「どうにかしたい」と強く思えば、人間動くものだなあと思

う。まあ私の症状がギリギリのところで耐えられるという

状況だったから言えることなのかもしれない。これから先、

症状が寛解するかもしれないし、悪くなるかもしれない。

それは分からない。病気の体験も、心に大きな衝撃を残して

いる。消えない事実と不安な未来。これらは私が生きていく

上で邪魔だろうし、ない方がいいと思ってしまう。

けれどこれらを抱えて生きていくことは私が学ぶべき課題なの

だろうと思う。人それぞれ苦労は経験する。それが私は病気

だっただけだ。年をとれば病気の一つや二つ、するものである

。たまたま私はこの病気になった。それだけの話。

今までの経験を全て消すことはできないし、消したら私がいなく

なってしまう。だから上手く自分をコントロールして、病気と付き

合いながら、生きていきたいと思う。

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